2011/05/04

三陸海岸大津波 を読んで−1

何度か日記に書いた事があると思うけど
小説家の吉村昭氏の作品をとても信頼しています。
かなり読んでいるつもりでいたのですが
「三陸海岸大津波」は全くのノーマークでした。
なので、今回の津波が起こった後にこの本を本屋に買いに行ったのですが、
どこも売り切れで、もちろんアマゾンでも品切れ中。
いつになるかわからないとの事。
最近だめもとで本屋で見ていたらやっと発見しました。
文庫の最後をみると2011年4月20日の9刷目でした。
あの津波以後に刷られた分です。

この本は1970年に書かれたものであるし
吉村さんも2006年に亡くなられているので
もちろん今回の津波の事は書いてはいません。

明治29年、昭和8年、そして昭和35年のチリ地震のときの
3回の大きな津波についてのドキュメンタリー。
いずれも吉村さんの綿密な取材と
抑え気味だけど心に迫ってくる描写で描かれています。

1970年、昭和45年に吉村さんが取材したときは
明治29年の津波の体験者が生きていて2人だけだけど話を聞く事ができました。
しかしその村々に残された資料や絵画からその時の凄まじい模様を知る事ができます。悲しくも、死者は2万1915名。
またそれ以前でも文献から三陸海岸を襲った津波を吉村さんは
貞観11年(896年)5月26日:死者千余人
から
明治27年(1984年)3月22日8時22分まで
18回の津波があったことを書き記しています。

昭和8年の津波になると、その津波を知っている人はたくさんいます。
町によって津波の高さが何メートルであったかもわかっています。
10.7mから24.4mまで記されていますが、吉村さんが聞き取りをした所、
もっと遥かに高い波が町を襲ったのではないかとも書かれています。
また、子供達、小学生の体験した津波の作文もたくさん残っていて
素朴な文章で家族を失った悲しい話がたくさん紹介されています。
死者は1522名
また、その時に政府や警察や赤十字がどのように救援したのかも詳しく記されています。甚大な被害を受けた田老町ではこの津波をきっかけに海抜10m 、総延長2433mの巨大な防潮堤が築かれたりもしたのです。

誤解を恐れずに書けば、このように何度も津波に襲われた三陸海岸で暮らす人々は津波に襲われる事を前提でおびえながら生きてきました。
だからどのような時に津波が来るかを言い伝えられています。
前兆として、津波襲来前、大漁、井戸水の減•枯渇、遠雷、あるいはドーンという大砲のような音がする。そして地震の後には津波が来るのだと教えられていました。
しかし、昭和35年のチリ地震の時は、遥か彼方チリの地震のあと22時間33分後に三陸地方を襲ったのです。
地震を感じる事もないまま、日本時間の午前4時10分頃、津波がやってきました。
注意深く津波の前兆をうかがっていたはずの住人は教えられていた事が起きなかったので、直前にこの津波を知ることとなり逃げきる事ができなかった142名が死亡しました。
よく今回の津波の被害を受けた人が、チリの地震も体験したんだし私たちは大丈夫だ、とよく言っているのはこの津波の事。
田老町では防潮堤のおかげで死者が出なかった事をとても喜んだと書かれています。

昭和45年、このドキュメンタリーを書いた吉村さんは最後に、
「三陸沿岸の人々は、津波に鋭敏な神経を持っている。もし、海に異常があれば、その人々は事前にそれを察知するに違いない」と記しています。
心に残った言葉として、明治29年、昭和8年、35年チリ地震、43年の十勝沖地震を経験した岩手県田畑村の87歳の早野幸太郎氏の言葉をあげています。
「津波は、時世が変わってもなくならない、必ず今後も襲って来る。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにいないと思う」

つづく

三陸海岸 大津波

吉村昭 文春文庫

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